2020年2月4日から2年間は、子丑天中殺になります。
算命学の知識がある方は、既にご存知の通り、
子丑天中殺とは、天中殺の立体配置では「北方」を意味する子丑が虚であり、
実世界においては不自然融合世界が実現するという意味になります。
実世界における北方とは何を意味するかというと、目上、上位という意味があり、
北方欠けとは「親や上司に恵まれない人」という意味になりますが、
私の視点から捉えますと、本人にとっての実世界の北方に、黒い雲がかかっているため、「親や上司に恵まれない人」というよりは、
「親や上司が幾ら良くやってあげても、黒い雲のせいでその良さが見えない人」というイメージになるのです。
多くの人は、天中殺を理由とし、
「私は子丑天中殺だから、先祖の恩恵が受けられない」といいますが、
この世に生を受けて生きている以上、「先祖の恩恵を受けられない」人物など皆無であり、
私からみると、「子丑天中殺」所有者は、「先祖の恩恵に気づかない人」人達という解釈になるのです。
例えば視力が1.5の人物で、遠くのものも近くのものも良く見える
視力のよい人物だとします。
しかし、子丑天中殺所有者は、他の方位はよく見えるのですが、
子丑(北方)の方位になると不思議な事に眼がかすみ、何も見えない状態に陥るのです。
だとしたら、
「見えない方位を頑張ってみるよりは、見えやすい方角だけを見ることで、
眼鏡もコンタクトレンズも必要なし」となるのですが、
古代の哲人たちは様々な意見を述べたことで、
私たちの心も迷い、生きづらくなるようです。
例えば、仏教的見地からみたら、
「虚の世界こそ有である。故に、例え親や上司や先輩から虐げられようが何されようか、
虚無の気持ちで向かい合うことで人間力が高まり、無限の有が得られる」という事であり、
天中殺を理由にせずに、虚無の心で接しなさいとなるわけです。
儒教的見地からみたらどうかというと、これは論語の大切な孝悌の徳目であり、
「孝悌なるものは、それ仁の本なるか」
つまり、親や兄や年長者に従うのは人間として当たり前の事であり、
孟子も、「孝悌の心」を忘れないことが肝要であることを説いています。
今の私達の倫理観は、徳川時代の儒教教育が大いに影響しており、
個々の得手不得手は関係なく、万人が「孝悌の心」に従うべきという意識でいます。
そのため、これもまた天中殺など関係なく、
孝悌の心をもって上に従うことこそが、肝要であるとなるのですが、
子丑天中殺所有者にとり、この言葉はどうしても重くのしかかり、
その重圧がストレスになり、人間力を十分伸ばす前に自分らしさが消えてしまう。
そうなると、自分の方向性さえ見失ってしまうのです。
算命学は、道教という実践的哲理を本としています。
そのため、子丑天中殺の人は、目上の人達との関係にストレスを感じやすいのだから、
目上のひとに感謝の意を表しながらも、南を向いて歩んだ方が生き方が楽であり、
故に楽天的に太陽に向かって明るく考えていきなさい。
あなたは子丑天中殺なんだから…となります。
継承に関しても、継承してくれた人に仁義の気持ちを抱き続けない限り、そこには矛盾が生じるのであり、
矛盾こそが、運命が滞る原因である。
そのため、運命を上手く動かしたければ、事業継承せずに自ら切り開いた方が、
人生はストレスという軋轢を感じることなく、
順調に推移していくとなるのです。
人間は有機物だからこそ、必ず終わりがあります。
つまり、有限の時間という枠でいきているのだから、
だったら、効率的に良い人生を創りあげた方がよいのではないか。
但し天中殺理論とは、現実世界の方位を示すものだから、
現実に欲がなくなり、未来へと、次世代へと眼が向けられるような心の余裕を得たならば、
今まで不義理をしていた目上の世界を敬慕し、
その空間に惹きつけられ、虚無のこころで、その世界へと心を馳せることで、
上手に人生を終えることが出来るのではないかと思うのです。
日本人の意識の中には、仏教・儒教の色が濃く、
道教は文化には融合されていても、思想学としては入っておりません。
道教とはTAOの世界
新しい時代に必要なのは、この「自分らしく生きる」という
TAOの原理かもしれないのです。
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