秘儀と言われる学問や技術の多くは、伝統的に「一子相伝」という形で伝承されてきた。選別された3名の弟子を幼少期より育成、成年に達した時その中から正式の伝承者《宗家》を選出、秘伝の奥義を伝えていくというのが伝統的方法だ。高尾義政ご宗家は四歳の時、長崎にて終戦を迎えられている。戦後、中国では共産党政権が台頭、毛沢東が指導者となり労働者国家が樹立された事で、知識を有する者に対し大変厳しい粛清が行われた為、戦後多くの文化人が中国大陸を逃れ、日本や台湾・香港・シンガポールへと亡命していった。

そのような大混乱の中、長崎の南蛮寺に《呉仁和師》という清王朝に仕えた儒学者が亡命されたという。長崎は被爆地でもあったことから、混迷の度合いも激しく、寺社が子供達の教育を手伝っていた時代でもあった。呉仁和師は、教え子の中に傑出された才能と明晰な頭脳を持つち、人間性にも大変優れた高尾少年に、自分の役割である《万象推命学の伝授》を行うことにした。共産党政権による知識層への圧政を見ると、もう二度と故郷には帰れないと思ったのだろう。高尾義政氏十三歳の頃、呉仁和師の形式的な養子になり秘儀を授けられたという。

清水南穂氏が高尾氏から伺った話だが、呉仁和師の他にこの学問の極意を伝え知る人物が他に2名存在したという。台湾とドイツへ亡命されたとのことだ。ドイツに亡命された者の足取りは掴めないが、台湾では《桃華算命学》が伝承されていて、日本に伝えられた算命学を北方算命学、台湾算命学を南方(桃華)算命学という。台湾で育った西川満氏(故人・小説家)により、叙述的な文章が印象的な運命学の名著を残されている。西川氏の影響は高尾氏の算命学にも大いなる影響を与えたと思われる。

長崎の商船高校を卒業された高尾氏は、駒沢大学にて仏教を学ぶ事を目指し、昭和三十六年 二十歳で上京された。 卒業後の2年間は、全国の寺院や図書館を廻る旅をすることで、伝授された知識を研鑽されていた時期なのだと思う。

高尾氏が十八歳の時に、西川満氏が台湾(南方)算命学を紹介する著書《人間の星》を出版されている。貿易会社を経営していた父親の仕事の関係で、台湾で育ち、早稲田大学の仏文科に進学された西川氏は、台湾では台湾文学界を牽引した名士として高く評価されている。 西川氏は戦後の日本で生活していく為に台湾算命学を用いた《占い業》をした所、注目を浴びた。日本に算命学を最初に伝えた人物という評価だが、ご本人の心はフランス文学者だったのだと思う。故に、弟子を持つ事はなく運命学の名著を残され、作家として名を残している。

高尾氏が上京された昭和三十年代初期は、戦後復興を遂げ、学生運動の前の比較的のんびりとした希望に満ちた時代だった。当時の学生は貧しくて当たり前。生活費を稼ぐため、高井戸のアパートに《占い鑑定所》を開設されたが、この鑑定所は大変な評判になり、進学どころではなくなったらしい。

呉仁和師から学ばれた学問を現在の算命学へと進化させたのは、高尾氏の努力によるものと推測される。呉仁和師より伝えられた時の名称も恐らく中国語のままだったのだろう。台湾算命学(南方算命学)と較べるとよく分かるが、南方算命学は陽占のみを活用したものであるが、北方算命学は陰占と陽占を縦横無尽に活用し、読み解いていく大変複雑難儀なものではある。 陽占の名称も大きく違う。

清水南穂氏が昭和37年に《上野で中国占いの講和会を行う高尾氏の講座に出席したが、陽占などなく四柱推命のようなものだった 》と明言している。 そして、昭和47年に高尾氏と再会した時は現在の算命学の名称になっていたという事なので、昭和37年~47年が《日本算命学形成期》と言って良いかと思う。尚、呉仁和師の存在は高尾氏の話でであり、その存在の確証となるものは何もない。以前私も長崎を訪れた際、その足跡を追い求め多くの南蛮寺を訪ねたが、終戦当時の長崎には多くの僧侶や儒学者が亡命してきた為、その記録は見つからなかった。

清水南穂氏は、昭和47年、清水氏が29歳、高尾氏が30歳の頃出会われている。《原典 算命学大系》を書くにあたり 聡明な奥様が鑑定で忙しい夫の代わりに国会図書館に通い詰めていらしたと清水氏は明言されている。高尾氏より19歳年長の夫人は東京女子大学の国文学を出た才媛であり、この学問が多くの女性の心を惹きつけるのは、そこに女性のセンスが加味されているからではないかと思う。

高尾氏は学位論文「陰陽道を媒介とした神仏習合」を駒澤大学へ提出。文学博士の学位を授与された直後に突然他界された。平成2年 享年48歳。大学教育を受けていない氏が博士号の学位を得るには、いかような努力をされたのか、我々が想像できない努力をされたのだと思う。又4歳で長崎にて終戦を迎えられているという事も加味すると、若き天才が命運をかけて残してくれた学問なのだと思う。

《甲子》を日干とする宗家の役割は、日本に新しい文化を築き、日本を新生させること。 古の日本人の思想の根底にある《東洋史観》という考え方は、て今の日本に忘れられている。 我々はその考え方を更なるステージに研究し、発展させ、次世代に引き継いでいくことを目的として活動するものとする。