高尾義政氏

この記述は私の師匠 清水南穂氏が語られたご宗家の想い出です。 ご宗家直門下生の諸氏もご高齢となられ 皆様のご記憶と共にご宗家の姿が消えていのも事実です。 皆様のご記憶がある内にという事で、清水先生のご紹介で 直門下生の方々に連絡をとらせて戴き、ご宗家のことをまとめさせて戴きました。そのほんのごく一部ですが、ご宗家のお姿を少しでもお伝え出来ればと思い、ご紹介させて戴きます。尚、ご宗家のことについて 情報提供を下さる方がいらっしゃいましたら どうぞお願い致します。

昭和16年9月 高尾氏は長崎で材木問屋の七人兄弟の下から三番目として生まれ、その半年後 浅草の靴卸の大商店にて清水南穂氏は生まれました。小泉純一郎氏や小沢一郎氏と同世代になります。この年は、真珠湾攻撃が起きた年でもあり、翌年がミッドウェー海戦であり、この時を境に日本は負け戦となりますので、両氏が生まれたこの年は 時代の大きな変わり目でもありました。 両氏共4歳の時終戦を迎えられます。

終戦後、中国では共産党政権が台頭、労働者国家の樹立により、知識階級や特権階級に対して、大変厳しい粛清が行われました。その為、多くの文化人が 日本や台湾・香港へと 逃れていきます。そんな大混乱の中、長崎の南蛮寺に《呉仁和師》という清王朝に仕えた儒学者が亡命、当時の長崎は原爆投下の被爆地でもあったことから混迷の度合いも激しく、子供達の教育をお寺や神社が担っていた時代でもあります。呉仁和師は 寺院に通う子供達の中に 傑出された才能と明晰な頭脳の持ち主の高尾少年を見出し伝承します。
昭和34年、高尾氏は、仏教を学ぶ為駒沢大学への進学を目指して上京、同年 西川満氏が台湾(南方)算命学を紹介する著書《人間の星》を出版されていますので、この年が《算命学元年》となります。 終戦から15年、映画《ALWAYS 三丁目の夕日》の時代。学生運動はまだ先の時代になります。上京されたご宗家は、進学するための資金と生活費を稼ぐため、池袋のアパートにて《占い鑑定所》を開設されるのですが、大変な評判になり、清水氏の話によると、22歳の頃には既に上野で算命学の講和会を開いていらっしゃいます。清水氏はこの講和会にも参加され、その時は難解な理論で現在の算命学とは全く違うものだったのそうですが、老熟されており20代の青年には到底見えなかったそうです。

20代の高尾氏は、呉仁和師から学ばれた学問を今の形にまとめ上げた形成期だったのではないかと思います。同年齢の清水南穂氏が22歳の時は算命学はなく30歳の秋に再会した時には算命学が成立しており、それで弟子入りをされたと証言されていますので、20代の若き情熱で算命学の理論体系を成立させたのではないでしょうか。 私個人では、20代の後半に19歳年上の厚子夫人と結婚されていますので、この厚子夫人の支えが大きかったのではないかと思います。この記述は女性ならではではないかと思う所も感じております。駒沢大学の近くに引っ越されますが、鑑定業があまりにも忙しく、通学することは出来なかったそうです。

昭和46年、清水氏は30歳の時、高尾氏に師事されます。清水氏の生まれ育った浅草は当時日本一の繁華街、様々な占い師がいますし、商家という家風もあり占いに慣れ親しんだ家風でした。年の離れた姉達の影響もあり、幼少の頃から占いが大好き少年。いわゆる 占いオタク… 家業の靴屋を継ぐために、日本大学で経営学を学ばれますが、学校の勉強より本業は占い。大学近くのカフェに《占いコーナー》を開くなど、占い好きは趣味の域を超えたものでした。
当然有名な占い師がいると聞けばどこにでも行きます。当時高尾氏の鑑定は3ヶ月待ちが当たり前。時間通り伺っても2~3時間は待合室で待たされることも当たり前だったとか。やっと通された部屋には、着物姿の落ち着いた佇まいの青年が、優しい笑顔で迎えて下さったそうです。これがお二人の出会いになります。
生年月日に基づいて、陰占と陽占と大運を計算し和紙に、さっと人生曲線を描いていく。優しく悠長に、依頼者の顔だけを見てお話になる。とにかく優しくて寛容で大きくて、深い品格のあった方だったそうです。

その圧倒的な存在感と的中率に感銘を受けた清水氏は即座に入門を願い出たこれが清水氏と算命学の始まりになります。赤坂のマンションの一室を借りて行われた教室の参加者は12名。女性が9名 男性が3名。そこにいた男性受講者が、現在高尾学館の校長先生でいらっしゃる中村嘉男氏(当時24歳)と 伝習院の学長であられた故野島和信氏(当時26歳)清水氏を加えるこの3名が高尾氏を最後まで支え、急逝以降算命学業界を支え続けたお弟子様になられます。 中村氏は、上智大学をご卒業された前途有望な商社マン。学生時代に家庭教師をされていた生徒のお母様に就職祝いに連れていかれたのがご縁。ご宗家が急逝後 高尾学館を守られる事になるのです。 野島氏は設計技師の建築家。建物の高度計算のようなとても難しい計算を行う専門家で、運命の構造にも興味を持たれてのご参加でした。この3名が 算命学の面白さと、ご宗家の人間的魅力に惹かれ、最期の直門下生《第4期生》となられます。ご宗家が入門時から亡くなるまで丁寧に教授された《直門下生》は、この第4期生が最初で最後であり、ご宗家の正統な弟子というのは、この三氏のみとなります。 ご宗家没後、《直門下生》と名乗る方がいらっしゃいますが、晩年一般を対象にした一般講和会を行っていたため、それに参加されていた方々であり、ご宗家から個人的に直接学び、ご宗家から離れず18年間師事されたのは、この三氏のみになります。そして この時から45年間 算命学を守り、現在の算命学を支えられていらっしゃるのも 三氏のご尽力になるのです。この第4期生以降に学ばれた優秀な方々が加わり、特別研究生という名称になります。学ばれて2年程経った頃、算命学の研究・鑑定・教育をお一人が行うのは さすがに無理があるということから、学校経営は他の人に任せることになり 赤坂に算命学の学校《朱学院》が設立されますが、経営面も問題が起こり、わずか4年でご宗家は朱学院から一切手を引くことになります。そして、1979年(昭和54年)ご宗家37歳の時のことです。第3期生に在籍されていた 和泉宗章氏が《天中殺》占いの本を出版。それがその年の大ベストセラーとなり、テレビなどでも大きく取り上げられます。なぜご宗家の学問を、一生徒が本にするのか大変不可解だったそうですが、和泉氏は競馬の予想の為に算命学を習っていたので、マスコミに知り合いも多かったのでしょうか。算命学の奥義を知ることのない和泉氏の発言は、世間から注目される程 多くの物議を惹き起こし、それはご宗家の活動にも大きな影を落としました。そのような 算命学の受難の時代 ご宗家を支えたのが 八木橋信忠氏です。八木橋信忠氏は、江戸時代から続く漢方医の8代目、大名や将軍家お抱えの漢方医として有名な名家のご出身です。人形町蛎殻町の自社ビルの一室を提供し 《荘学院》を開校。 朱学院で学んでいた生徒達の多くが、ご宗家と共に荘学院に移動します。ご宗家より10歳年長で生粋の江戸っ子な八木橋氏は、何でも遠慮なく発言する、豪快な快活な人物。由緒ある名家の漢方医であり、資産家でもあるのに一切気取りがなかった為、ご宗家の良き理解者 擁護者でもありました。八木橋氏に学校経営を任せられていたその時代 宗家は 『算命学大系』全11巻の執筆に没頭されます。しかし・・・ そんな平穏もつかの間…

荘学院設立から わずか2年後の 1981年1月7日 八木橋氏は脳溢血で急逝されます。享年50歳。その後のご宗家の人生を考えると・・・ ご宗家の人生が48歳で幕を閉じた遠因の一つに 八木橋氏を失ったことにある・・・と 清水氏は語っていらっしゃいました。 名家のご出身の八木橋氏は我欲がない方で、算命学はあくまでもご宗家のものというスタンスを貫いていらっしゃいました。そして、八木橋先生が亡くなられてから ご宗家ご自身が亡くなられるまでの8年間、当時珍しかったPCを活用する事業を行われたり、経営者のためのセミナーを開催するなど、ご多忙な日々を送られます。

そんな中、ご宗家を信望されていた政治家や宗教関係者の推薦もあり、駒沢大学の文学博士号取得を目指されるのです。長崎の高校しか出ていないご宗家が 大学の博士論文への挑戦とは、常識では考えられない偉業です。ご宗家の夢は ・・・ 算命学を単なる占いで終わらせることなく、学問として 次の世代に遺すこと。その為にご自身が文学博士として、学問の世界で認められることが大切であると、チャレンジされたのです。

1986年 八木橋先生が亡くなられてから5年後、ご宗家45歳の時 念願だった算命学の学校 高尾学館を設立されます。 金沢や奈良でも経営者の為の合宿セミナーも開催されていらっしゃいますから 日本全国に算命学を広める活動にも着手されていました。

平成2年(1990年)5月29日 文学博士号認定の内定の連絡が入ります。博士号のお祝いに奥様とホテルオークラで会食 自宅に戻られた直後に心臓発作

1990年 6月1日 永眠 享年48歳

ご宗家の高尾学館も、開校からわずか3年も立たない内にご宗家を失ってしまうことになってしまいます。その後を守り担われたのは中村氏のご尽力だと、私の師匠清水南穂氏はいつも感謝の気持を語っ
ていらっしゃいます。ご宗家は文学博士になってからが、本格的な算命学元年であり、本格的な学校設立を目指されていらしゃいました。ご宗家がご存命でいらっしゃったら 算命学の未来図も大きく変わっていたでしょう。

 

この記事は、清水南穂氏と故松川由子様《安寿様》のお話を まとめたものです。 お写真は 両氏より提供戴いたものになります。昔の話でもあり、両氏のご記憶のみを資料としておりますので 当時のご関係者の方でアドバイス戴ければ 大変助かります。

宗家の長崎時代・呉仁和師、20代のご活動について情報を戴けたらと思います。皆様のご協力で記録を作り、次の世代に伝えて行きたいと思っております。

何卒 宜しくお願い申し上げます。